【公式】浅草においでよ!

浅草のお店や地図、クーポンやイベントなど様々な情報を掲載した便利なサイト「浅草においでよ!」

2013年

浅草は年がら年中参拝日

~パワースポットの寺社巡りでご縁とご利益がありますように!~

浅草は日本の代表的な観光地として、国内はもちろん、海外からも沢山のお客様が来ていつも賑わっています。
そんな浅草は、浅草寺を中心とした寺社町でもあり、数多くのお寺や神社に囲まれています。
今回はそのうち9カ所をご紹介しますが、このほかにも、人気が高く由緒ある寺社も数えきれず。
そのどれもがパワースポットとして浅草の元気を支えています。
観光やお食事などで訪れた際にも、ぜひご参拝ください。

※各寺社のデータについては、季節や行事などによって変更があります。
 ご参拝の際には事前にホームページなどで確認してください。

浅草寺・浅草神社

浅草寺 住所:台東区浅草2-3-1
開堂時間:(境内参拝自由)
夏季6:00縲鰀17:00/冬期6:30縲鰀17:00
公式サイト:http://www.senso-ji.jp/
浅草神社 住所:台東区浅草2-3-1
社務時間:9:00縲鰀16:30(境内参拝自由)
公式サイト:http://www.asakusajinja.jp/
浅草は、何といっても浅草寺と浅草神社がすべての中心。
浅草寺は「観音様」、浅草神社は「三社様」と呼ばれ、古くから広く江戸庶民に親しまれてきました。
明治政府の「神仏分離令」によって、今では浅草寺と浅草神社は分かれていますが、浅草界隈では、地理的には無論のこと、日々の生活もこの2社を中心に動いているのです。

本堂

628年(推古天皇36)3月18日、桧前浜成と竹成の漁師兄弟が隅田川で漁をしていたところ、人型の像が網にかかりました。
これを、土師真中知によって、聖観音菩薩尊像として祀られたのが金龍山浅草寺の起源。
急勾配の屋根が印象的な本堂は、1945年(昭和20)の東京大空襲で焼失してしまいましたが、1958年(昭和33)に再建しました。宮殿の裏には秘仏本尊と同じ姿の聖観音像(通称、裏観音。高さは実物が約20センチなのに対して、裏観音は89センチで異なる)が安置され、参拝者はその姿を確認することができます。

五重塔・宝蔵門

江戸期の絵図では「仁王門」と書かれている通り、金剛力士の仁王像が安置されている宝蔵門。
そして、地上からの高さは53メートルの五重塔。
江戸時代から浅草のシンボリックな建造物として有名です。

浅草神社浅

浅草寺の本尊である「観音様」に深く関わる桧前浜成と竹成兄弟、そして土師真中知の3人を神様として祀ったのが三社権現社、現在の浅草神社です。
毎年5月に開催され多くの観光客が集まる「三社祭」は、三社様が3つの御輿に分かれて浅草を練り歩く、浅草神社のお祭りです。
「浅草名所七福神」では、恵比寿が祀られています。

淡島堂

淡島堂は、1994年(平成6)に、それまで影向堂だったお堂を移築したもの。
このお堂こそ、第二次世界大戦後、本堂が再建されるまで「仮本堂」として役割を担っていました。

影向堂 ようごうどう

影向堂には、聖観音菩薩のほか、十二支の守り本尊8体が安置。
また、「浅草名所七福神」の大黒天が祀られ、浅草寺の御朱印もこちらでいただきます。

平和地蔵尊・母子地蔵

1945年(昭和20)の東京大空襲によって、境内はもちろん、浅草一帯が壊滅的な戦災被害に遭いました。
そのため、浅草周辺には戦争被害を悼む碑や、平和を願う碑などが点在しています。
平和地蔵尊も、二度と戦争が起こらないようにと祈願されて建立されました。
母子地蔵尊は、漫画家ちばてつやさんのデザインによって建立されたものです。

奥山の石碑

浅草寺の境内には、様々な石碑や塚などが建立されています。
特に、かつて「奥山」と呼ばれた本堂の西側には、浅草文化や芸能に縁あるものが数多く集まっています。
写真は「喜劇人の碑」。

雷門

浅草だけでなく日本のランドマークとして、海外の観光客にもお馴染みの雷門の正式名称は、「風雷神門」。
雷門の向いにある「浅草文化観光センター」は、観光案内所となっており、浅草にまつわる様々な情報を提供してくれています。

仲見世通り

日本で最も古い商店街の一つ仲見世通り。
雷門から宝蔵門まで続く参道は、江戸時代からいまに至るまで、参拝客で常に賑わっています。
東側に54店、西側に35店、合計89店の店舗があり、長さは約250メートル。
なお、浅草寺の参道は、この仲見世だけでなく、駒形橋の袂にある「駒形堂」まで続いています。

鎮護堂 ちんごどう

伝法院通り沿い、浅草公会堂近くには「鎮護堂」の入り口があります。
浅草寺本坊である伝法院の鎮守として、狸が祀られています。
入り口を入ってすぐ右には、お座敷に花を咲かせる太鼓持ちを祀った幇間塚。

二尊仏

宝蔵門の向って右手に鎮座する2つの仏像。
右が観音菩薩、左が勢至菩薩で、「濡れ仏」とも呼ばれています。

待乳山聖天

住所:台東区浅草7-4-1
アクセス:北めぐりん「隅田公園」下車すぐ
本堂開堂時間:夏季6:00~16:30/冬期6:30~16:30
http://members2.jcom.home.ne.jp/matuti/
正式名は「本龍院」。
浅草寺の支院として北の小高い丘に建てられました。
この待乳山は、595年(推古天皇3年)に出現し、金龍が舞い降りたと伝えられています。
浅草寺が「金龍山」という名称になった由来であり、浅草寺で行われる「金竜の舞」の起源ともなった場所。
境内各所には、大根や巾着が印されていますが、これは祈願によって得られるご利益を表したもの。
大根は身体を丈夫にし無病息災、夫婦和合、子孫繁栄を表し、巾着は砂金袋で商売繁盛を表しています。
「浅草名所七福神」では、毘沙門天が祀られています。
毎年1月7日に開かれる「大根まつり」では、ふろふき大根や甘酒がふるまわれ、初詣や七福神巡りなどでたくさんの参拝客が訪れ賑わいます。
大根まつりでその昔、金龍の舞い降りた山への階段を昇る参拝客。
待乳山は小高い丘となっており、江戸時代には浅草一帯の景勝地としても親しまれた。
図版は、隅田川から待乳山や三谷堀のあたりを眺めた江戸時代後期の様子。
歌川広重「東都名所 真土山之図」(出典:国立国会図書館デジタル化資料)
境内に隣接する公園には、小説家・池波正太郎氏の生誕地の記念碑があり、文学散歩の定番地にもなっている。

今戸神社

住所:台東区今戸1-5-22
アクセス:北めぐりん・都営バス「リバーサイドスポーツセンター」下車すぐ
社務時間:9:00~17:00
http://members2.jcom.home.ne.jp/imadojinja/
今戸神社は、1063年(康平6)、源頼義・義家父子が、奥州討伐の際に、京都の石清水八幡を勧請したのが創建の由来となりました。
数々の戦乱や震災によって被災しながらも、その都度再建され、1971年(昭和46)に現在の社殿が再建されています。
江戸末期に「浅草に住むある老婆が、貧しさゆえに愛猫を手放したところ、夢枕にその猫が立って言いました。
『自分の姿を人形にしたら必ずや福徳を授かる』と。
そこで老婆が横向きで片手を挙げた人形を作り、浅草寺の参道で売り出してみたら大評判だった」という由来から、「招き猫発祥の地」とされています。
また、縁結びのご利益も有名で、縁結びの御守や絵馬を求める参拝客が訪れ、最近では「婚活神社」として若い独身者やカップルに人気のスポットとなっています。
「浅草名所七福神」の福禄寿は、福の神として白髪童顔の温和な容姿なため、昔から庶民の尊信を集めています。
外観と本殿。休日などには、参拝に訪れる若い女性が本殿前に並んで参拝を待つ姿が見られる。
境内には、「今戸焼き発祥の地」碑と「沖田総司終焉之地」碑が並んで建てられています。
そのため、新撰組や近代史が好きな人も訪れます。

吉原神社

住所:台東区千束3-20-2
アクセス:北めぐりん・都営バス「吉原大門」下車5分
社務時間:午後から夕方にかけて(境内参拝自由)
江戸初期の1657年(明暦3)の大火によって、江戸の中心地は焼失してしまいました。
その際、現在の人形町あたりにあった吉原遊郭を浅草の北側に移し「新吉原」と命名。
以来、1958年(昭和33)までおよそ300年間、幕府や日本政府の公認した遊郭街として存在しました。
浅草寺を中心とした寺町文化と、吉原を中心とした歓楽文化が、浅草の風俗と文化の源泉となっていったのです。
湿地帯だったこの地の一部を、遊郭造成する際に池として残し、その畔に弁天祠が祀ったのが吉原弁天の起源。
遊郭の総鎮守として、吉原の人達や客に崇敬されてきました。
「浅草名所七福神」の弁財天としても親しまれ、芸道富有、子孫繁栄として祀られています。
吉原神社は、吉原遊郭にあった5つの神社が1872年(明治5)に合祀されて命名されたもの。
その後、1935年(昭和10)に弁財天も合祀され、現在に至っています。
本殿と外観。社務時間は日によって異なるため、御朱印をもらう際は、近くにある千束稲荷神社(台東区竜泉2-19-3)の社務所に行けば御朱印がいただける。
江戸時代には最大の遊郭街として賑わった吉原も、いまでは「吉原大門」という交差点の名前を残すのみ。交差点には「見返り柳」だけが今も残り、当時を偲ばせています。

鷲神社・長國寺

鷲神社 住所:台東区千束3-18-7 http://www.otorisama.or.jp/
長國寺 住所:台東区千束3-19-6 http://otorisama.jp/
アクセス:つくばエクスプレス「浅草駅」下車5分
毎年11月の酉の日に行われる「酉の市」。
江戸時代、現在の足立区花畑にある大鷲神社で、農具である熊手で幸運や金運を「かき集める」という由来から、縁起熊手を使って収穫祭が行われました。
そこへ参詣した人達が千束に立ち寄り、鷲在山長國寺の境内にあった鷲神社に熊手を奉納したと言われています。
江戸時代の中期以降になると、その鷲神社で酉の市が開かれるようになり、商売繁盛を願う客や吉原遊郭に通う客達で賑わい、江戸の一大イベントとなりました。
「神仏分離令」によって長國寺と鷲神社はわけられましたが、11月の酉の市は、両寺社の敷地内にギッシリと露天が並び、縁起熊手を買い求める客でいっぱいになります。
1月の酉の日には、夜中0時から24時間、酉の市が開かれ、昼夜を問わず賑わいます。
鷲神社(浅草名所七福神の寿老人)
鷲神社の境内には、文学歌碑などが建立されていて、文学散策と合わせて楽しむことができます。
長國寺
長國寺では、毎年6月に「いきいきあじさい祭」が開かれています。

九品寺

住所:台東区花川戸2-11-13
アクセス:東武線・東京メトロ銀座線「浅草駅」下車3分
http://www.hanakawado.jp/kuhonji/
歌舞伎「助六」でお馴染みの花川戸は、浅草寺と隅田川に挟まれた界隈です。
その花川戸にある光照山九品寺は、1598年(慶長3年)に草創。
1657年(明暦3)に起きた明暦の大火によって犠牲となった多くの人々の菩提を弔うため、江戸市民から浄財を募って阿弥陀如来座像「九品寺大仏」を建立。
蓮華坐には、建立に協力した人々や関係者の戒名・法名などが刻まれています。
一方、花川戸は、江戸時代から草履や履物の職人が多く住み、「履物の町」として発展。
現在でも、靴、草履、サンダル、かばんなどを扱う約70件の問屋が軒を連ね、毎年年末には花川戸公園で「花川戸はきだおれ市」が開催され賑わっています。
そんな町と縁あるのが、九品寺大仏の向いにある「沓履地蔵尊」で、沓を履いた全国でも珍しいお地蔵様です。
平安期に作られたとされる地蔵尊が、1923年(大正12)の関東大震災で焼失されましたが、1995年(平成3)、文献に従ってほぼ等身大の大きさに復元されました。

九品寺には保育園が併設され、そこに通う子供達はいつも大仏様やお地蔵様に見守られています。
「沓履地蔵尊」と「九品寺大仏」

鳥越神社

鳥越神社住所:台東区鳥越2-4-1
アクセス:都営地下鉄「蔵前駅」下車5分
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kab_ra/
1360年という歴史を誇る鳥越神社。
毎年6月9日前後の日曜日に開かれる例大祭「鳥越祭」では、東京で最大級の重さを誇り「千貫御輿」(1貫は約3. 75キロ)と呼ばれる神輿が出され、下町の狭い路地に多くの担ぎ手たちがあつまり、鳥越の町を練り歩きます。
夕刻、神社に神輿が戻り、弓張提灯と町会の高張提灯に火が入ると最高潮を迎えて、宮入道中となります。
その荘厳で幻想的な様子から「鳥越の夜祭り」と言われてきました。
毎年1月8日13時からは、「とんど焼」が開催されています。
前日の七草粥と同時に正月行事をすませ、正月にお迎えした神様を送り、お炊き上げの火や煙によって1年の災厄から身を清める行事です。
古くから職人の町として発展してきた鳥越は、現代に昭和の下町らしさを残す街並みで、鳥越神社のすぐ裏手には「おかず横町」と呼ばれる商店街が、近隣の人達の食を支えるだけでなく、下町情緒にあふれ、散策を楽しみに訪れた人達からも昔懐かしい雰囲気が喜ばれています。
神社近くのおかず横丁商店会
主要道路のひとつ、蔵前橋通りに面する神社の鳥居。

本法寺

住所:台東区寿町2-9-7
アクセス:東京メトロ銀座線「田原町駅」下車2分
http://honpoji.web.fc2.com/

長瀧山本法寺は日蓮宗の歴史のあるお寺。
1591年(天正19)、太田道灌の居城であった江戸城内に創建されました。
その後、八丁堀に移ったのち、1657年(明暦3年)の大火で焼失し、現在の地に移りました。
境内には、熊谷稲荷があり、福徳を授ける白狐を祀った珍しい稲荷として、江戸時代から霊験あらたかな稲荷社として名高いものでした。
1941年(昭和16)、この地に「はなし塚」が建立されました。
戦時下のなか、芸能をはじめとしてあらゆる文化に対し表現の自由が規制され、政府に検閲されるようになり、落語界にもその影響がありました。
そこで、落語界は政府の追求を逃れるため、吉原を舞台にした「廓噺」、お色気たっぷりの「艶笑噺」をはじめ、浮気な女房と亭主の関係を滑稽に描いた夫婦もの、女性の嫉妬心を描いた演目、若者と娘が不純な関係になるような噺などを「禁演落語」として選び、台本とともに塚に埋めて自粛したのです。
戦後、1946年(昭和21)に、禁演落語復活祭が行われ、それまで禁演とされていた「明烏」「木乃伊取り」などの名作を含む演目が復活しました。

演目が復活した後も、「禁演落語」という過去を忘れないよう、「はなし塚」は当時の面影のままに残っています。
1954年(昭和29)、落語関係者たちが外塀を寄贈した。
「禁演落語」に対する後悔の念を後世に残そうと、寄贈に協力した人達の名前が外壁に刻まれている。
文楽、志ん生、園生など、昭和の名人たちの名前を探すのが落語ファンの楽しみです。

ご利益たっぷり

名所七福神詣

あらゆる開運成就って欲張りなんじゃない!?


歌川芳虎「七福神宝の参宮」(出典:国立国会図書館デジタル化資料)

七福神信仰は、人間のあらゆる願望をそれぞれの神に願うことによって、様々な開運を成就させるもので、江戸時代から庶民のなかで普及していきました。
江戸末期には、とくにお正月のうちに巡拝し、その年の福徳を願うようになり、ますます流行となったのです。
浅草名所七福神詣は、浅草を広く取り囲む9つの寺社をめぐります。
もちろん、自分の望む開運を目的に寺社を選んでもご利益はあります。
ただ、せっかくなら、ゆっくりと浅草散策を楽しみながら、すべての寺社で御朱印をもらってはいかがでしょう?
拝観順序も決まっていませんし、別の日にわけて御朱印を揃えても大丈夫。ぜひお楽しみください。

大黒天

浅草寺
元は古代インドのマハーカーラ神という協力な軍神だが、日本では【有富・蓄財】の神として崇められている。
福々しい顔に、打ち出の小槌、米俵、大きな袋を持っている。

恵比寿

浅草神社
七福神のなかでも、唯一日本生まれの神。
釣り竿を持ち鯛を抱えているのは、大漁を願う漁民の気持ちの表れ。
【招福・開運】の神として、商売繁盛などを祈願される。

毘沙門天

待乳山聖天
別名「多聞天」とも呼ばれる古代インド神のバイシュラバナのこと。
甲冑を身につけ、宝搭と金剛棒を持つ。
戦闘の武神として【勇気・授福】の神と言われる。

福禄寿

今戸神社・矢先稲荷神社
仙人のような長い頭に白髪童顔の温和な容姿の福禄寿。
福=幸福、禄=経済の安定、寿=健康・長命、3つの福徳を授ける【人望・福徳】の神。
鶴に乗り飛びまわることから、旅行安全のご利益も。

布袋尊

橋場寺不動院
中国に実在した禅僧が元となっている布袋尊。
禅僧の死後に弥勒菩薩の化身と尊ばれた。
福々しい笑みや、大きなお腹と大きな袋が特徴。
【清廉・度量】の神。

寿老人・寿老神

鷲神社・石浜神社
中国道教の祖である老子が仙格化されたもの。
白髪長頭で笑みを絶やさず、長寿の福徳を記した巻物をつけた杖とを持つ。
寿老人とも寿老神とも言われ、【長寿・延命】の神として親しまれている。

弁財天

吉原神社
七福神の中では唯一の女神で、古代インドのサラスパティと呼ばれる川の女神。
【芸道・富有】の神とされる。
過酷な環境で従事させられていた吉原の遊女たちや、浅草の芸者たちに親しまれた。